逃走

人はなぜ自由から逃走するのか

エーリッヒ・フロムとともに考える 仲正 昌樹 を読んで

『自由からの逃走』は自由に慣れた近代人が強い権威に惹かれ自発的に従属するようになるメカニズムを論じたものである。

・読了して感じたこと

人が強制をしてもらいたがる理由がわかった。

現代人は生まれながらにして“自由”である。にも関わらず何故人は“強制“を受けたがるのかが分かった。

現代において世論、常識が強くなりそれに従わない人を排除するような流れが何故起きるのか?について理解できるようになった。

・全体主義と人間

現代人は世論、常識に従わない人を集団で責め立てて逆らえないようにする。晒し者にする。認めないようにする。

そんな状況は『自由からの逃走』が書かれた時代におけるナチスの状況と酷似しているように感じる。

現代人にとってはナチスの行いは批判されるものであり、何故多くの人がその行動に加担したのか疑問に感じると思う。しかし世論、常識に逆らえないというのは今の日本においても同じである。今も集団と同じ行動をしない人は責め立てられるし世論、常識に従わない人は叩かれる。

個人が尊重される時代であるはずだがその叩かれ方は異常だ。

世論以外の意見を非人間的な意見とし排除し、異論が言えない状況にすることが全体主義でありファシズムである。

人は何故全体主義の状況を好むのだろうか?

何故自由であるという状況を楽しまないのだろうか?

本来は自分がどう判断するかは自由だし自分以外がどう判断するのかも自由であるはずなのに。

現代人において人を差別するとき“自分たち”と“彼ら”を分断し、世界を二分し、“彼ら”を差別し、“自分たち”の優位性を確認する。

・世論や常識と人間

現代人は昔と違い権威には拒否感を感じる。

しかし、世論や常識に従うことは違和感がない。むしろ進んで従いたがる。

結果としては権威に従っているのと同様であるし、世論や常識はマスコミによりコントロールされている。

そして世論や常識に従うことは自分の自由を放棄していることになるはずなのだが、現代人は世論や常識に従っているだけとは感じず自分の自由の中で選択していると思うのだ。

そして世論や常識に従う“自分たち”を人間とし従わない“彼ら”を公然と差別し責め立てることを正当化する。

それによって“自分たち”の正しさを確認しマイノリティーであることで優位性を感じるのだ。

・“自由”と人間

人は誰かが決めた世論や常識に従うことで自分で判断することを放棄する。

そうすれば万が一誤りであった場合でも自分の判断を責めるのではなく世論や常識又は制度や国家の責任にすることができると考えている。もちろん代償を払うのは自分自身であるにも関わらず。自分で判断するには多くの情報、知識が必要であるし、誤った判断を下した際の責任を引き受ける覚悟も必要となる。

一方“誰か”の指示に従っている限りは自分は責任を取らずに“誰か”を責め立てればいい。

人間は自分で判断しないためには“自由”から簡単に逃走することができるのだ。

・感じたこと

本書では何故人が“自由”から逃走するのかそのメカニズムについて分析されている。

人が本来生まれながらにして持っている“自由”を手放さない方がいいのかそれとも手放した方がいいのかはそれぞれが考えるしかない。

そして“自由”を手放している人は手放していることにすら気付いていないのが現実である。自分自身の“自由”を手放すのは勝手だが他人の“自由”を奪う権利は誰にもないことは多くの人に理解してもらいたいと感じた。

無意識にではあるが人は自分で考えたくないし責任を取りたくない。そうすると取り敢えず世論、常識に流されてしまうのが人間なのである。

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